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源平情報

「むれ源平 石あかりロード」で「石あかり」とともに忘れてはならないのが「源平」。
そう、このエリアは平家物語・源平合戦で「屋島の戦い」の舞台となった場所なのです!

石あかりロードにお越しの際には、「石あかり」の穂のかな灯りに照らされた街道の風景と共に、ぜひ源平の「歴史ロマン」も感じて帰って下さい。

石あかりロード実行委員会 × 高松大学 (2015年)

石あかりロード実行委員会は、高松大学と協力し、石あかりロードの魅力をもっと伝えるためのプロジェクトを進めています。

今回は、高松大学の学生さんが、石あかりロードのスタートから携わり、屋島周辺の源平史跡にも詳しい高松市牟礼庵治商工会事務局長の十河伯行さんに伺った、石あかりロードと周辺の源平伝説についての話をまとめてくれました。

石あかりロードにお越しの際、またはお帰りになってからでも、「石あかり」と共に、ぜひ「源平」の世界にも触れて頂ければと思います。


「平家物語」って平家の話だけじゃなかった?

平家物語は、次の語りから始まる物語です。

祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす
おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし
たけき者もついには滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ

平家物語は、平安時代の平家の栄華から没落までを描いた物語です。
しかし、平家を倒した義経もその後、兄の頼朝によって滅ぼされ、その頼朝や源家も、更にはその後に続く北条家も、また同じようにその後滅びていきます。

実は冒頭の語り部分を口語訳すると、

祇園精舎の鐘の音には 永遠に続くものは何もないと言っているような響きがある。
まんじゅしゃげの花の色は栄えたものは必ず滅びるという法則を表している。
権力を持ったものも長くその権力を持ち続けることはできない。それは春の夜の夢のようだ。
強い力を振るったものも結局は滅びる。それは風の前にあるちりと同じである。

と言う意味になります。

平家物語は、実はただ平家だけの話を伝えているのではなく、どんなに権力を持ったものでも、いつかは滅びるというメッセージが込められた物語なのではないかと言われています。

「屋島の戦い」は失敗?

屋島の戦いにはいくつかのエピソードがありますが、中でも有名なのが「那須与一の扇の的」ではないでしょうか?
日も暮れかけ両軍が引き始めたころ、海上の平家軍から一艘の船が近寄り、船上の女性が扇を射るようにとの仕草を見せます。これを見た源氏軍の総大将義経は、自軍の中から扇を射ることができる武士を探すように命じるのでした。そこで登場した那須与一が見事に射止めたという話です。

その他にも、屋島の戦いでは、佐藤継信の身代わり死、平景清の錣引(しころびき)、源義経の弓流しなど有名なエピソードがいくつかありますが、ところで、屋島の戦いは源平の合戦としてはどういう結果だったのでしょう?

実は、源平の合戦の本当の目的は(義経側からすれば)平家軍から安徳天皇と3種の神器(鏡、玉、剣)を取り返すことだったのです。しかし、結果は義経は屋島でそれらを取り返すことはできませんでした。そういう意味では失敗だったのかもしれませんね。

こんなところに義経伝説?

香川県内には様々な場所に義経伝説があります。

例えば、香川町南部には弊無坂(へいなしざか)の義経伝説があります。義経軍が西庄にさしかかった時、乗馬が急に動かなくなり、偶然通りかかった神主が御幣(ごへい)を持たずお祓いしたことから、義経がその神主を弊無太夫と名付け、現在でもその呼び名が受け継がれているというものです。

しかし、平家物語による言い伝えでは、義経軍は、徳島県小松島市付近に上陸後、大阪峠(東かがわ市相生)から海蔵院(東かがわ市相生)、水主神社(東かがわ市水主)、義経桜(さぬき市大川町田面)、寒風峠(さぬき市寒川町石田)を通ってきたと言われています。この言い伝えによれば、義経軍は香南町を通っていないことになります。さて、どういうことか?

実は、義経軍は、数隊に分かれて屋島までやってきたのではないかと言われており、その内の一隊が吉野川に沿って塩江から攻め込み、香南町を通った可能性もあるわけです。弊無坂をはじめ、香川県内各所に義経伝説が点在するのは、こうしたことからだと考えられます。

石あかりロードは江戸時代の観光名所?

ことでん八栗駅から駒立岩まで続く石あかりロードの周りには、総門、洲崎寺、祈り岩などの源平に関する史跡がたくさんあります。

でも、実は源平の史跡の多くは江戸時代初期に高松藩初代藩主の松平頼重公によって整備されたものと言われています。なぜこの場所に史跡を整備したのでしょうか・・・。

それは「観光」のためだと言われています。寺社参拝をする時くらいしか村を離れることができなかった江戸時代において、この周辺の寺社へ参拝に来たついでに観光してもらおうという目的で史跡が整備されたと言われています。

ちなみに、屋島周辺には、同じく観光目的であとから整備されたり、後から作られたと思われる伝説がいくつもあります。例えば、屋島山上の「血の池」や「瓦投げ」などの伝説も後から作られたのではないかという説があります。

これから石あかりロードに来られる皆さんへ~

源平の戦いが繰り広げられたこの地を照らす「石あかり」。
歴史に物語があるように、石あかり一つ一つにも石匠が込めたそれぞれの物語があるそうです。
源平の物語、石あかりの物語、その両方を楽しんで頂けたら嬉しいです。

最後に、十河さんから、石あかりロードへお越しの皆さんへのメッセージを頂きました。

『自分が好きな石あかりを探してください!』